冷たく乾いた空気の中をバスが走り去っていった。
水蒸気混じりの白っぽい排気ガスを吐き出しながら、ゆるいカーブの向こう側に消える後姿を見送る。
なんとなく空を見上げ、ため息をつく。ほわり、と白く揺らぎ、すぐに薄らいで消える。
ああ、冬なのだ―――今更ながらに思う。
あの頃はまだ、ようやく夏の始まりが遠慮がちに訪れようとしていたというのに。
あれからいくつもの月日を重ねて、私はこんな処にまで辿り着いてしまったのだ。
頭を廻らせて辺りを見る。
寂れたバス停の他は何もない、殺風景な道路。低く連なる冬枯れの山。海沿いの狭い平地にへばりついた小さな町。
あとはただ、鉛色の空と海が広がるばかりだった。
こんな処にまで、と重い気分で再び思った。
どうして私が。今更ながらに、そうも思う。
だが、それらは結局全てただの泣き言だった。
海の方から吹き付けてくる風に、私はコートの襟を立てて掻き合わせた。キャンバス地の重いザックを担ぎ直す。
私は町へと続く道を歩き始めた。
私の戦争を始めるために。
海辺の町特有の、急な坂道を降りる途中で、私は賑やかな声に出会った。
保育園と思われる建物の前の、小さな遊び場で、幼い子供達が寒風に頬を染めてはしゃぎまわっていた。
建物の中からは、お遊戯の声が聞こえてくる。
喪われた無邪気な日々。
痛みにも似た懐かしさに、私は足を止めて子供達の姿に見入った。
「ちょっとあんた」
不意に声をかけられる。
赤く髪を染めた女が、険しい目でこちらを見ていた。
「うちの子らに、なんぞ用事でもあるんか」
おそらくは保育園の関係者なのだろう。不審者とでも思われたのだろうか。
馬鹿馬鹿しい、と思ったが、警戒する気持ちも理解できなくはなかった。
最近は性的な目的だけでなく、意味も無く弱者に危害を加える人間も多いからだ。
だが、自分が疑われるのはごめんだった。
曖昧に頭を下げて、私はその場を後にした。
冬の空気が町を満たしていた
それは全てから色と音を奪い、灰色の静寂の下に覆い隠していた。
あるいは、夏の光こそが幻だったのか――――――
それは、今は誰にも分からないことのように思えた。
堤防沿いの道を、コートの襟に顎を埋めて歩く。
人の気配は無く、車が通る様子も無い。
ただ、堤防の向こうから、重苦しい海鳴りの音が聞こえてくるだけだった。
微かに疲れを感じて、私は足を止めた。
俯けていた顔を上げる。
目の前に、堤防を上る階段があった。
冬の海を見てみよう。
不意に、そんな考えが頭に浮かんだ。
私は堤防の階段を上っていった。
堤防の上は海からの風がまともに吹き付けていた。
体温と一緒に、骨から肉が削り取られるようだった。
だがそのかわり、視界いっぱいに、荒々しく押し寄せる冬の海と、それを覆う鉛色の空が広がっていた。
荘厳な光景だった。
太古、海は決して人間が乗り越えることのできない領域であり、その果てには、永遠の国があると信じられていた―――そんな話をどこかで聞いたことがある。
大昔の人間がそんな風に考えたのも、頷ける気がした。
私は半ば呆然と、冬の海に見入り続けた。
(ん?)
空から、何かが私の目の前にきらきらと光を曳いて舞い降りてきた。
それは、白い羽根のように見えた。
海鳥のものだろうか。
私は手を伸ばして、指先で羽根に触れた。
ふと、夏の風の匂いを嗅いだ気がした。
『う――――ん』
堤防に立ち、全身で夏の風を受ける少女がいた。
真っ青な空と入道雲を背に、細い両腕を翼のように広げ、紺色の制服をなびかせながら。
それはあたかも、空を飛んでいるかのような……
『はっ』
少女がこちらを向く。子供みたいな笑顔。
『おっきい荷物ですね。旅人さんですか?』
ええ。
『この町は初めてですか?』
ええ。
『泊まる所はありますか?』
いいえ。
『だったら私の…』
「みすず………!!」
押し殺した悲鳴にも似た、嘆息するような声。
気がつくと私は、鉛色の空の下、冷たい風が吹きつける堤防の上に一人で腰掛けていた。
少女も、夏の光と風の匂いもない。
長い時間寒風に晒され続けたせいか、ひどく体がだるかった。
声のした方に顔を向ける。
先程、保育園で私を詰問しようとした赤い髪の女が、血の気の失せた顔で呆然とこちらを見ていた。
「あんた一体…」
「………」
私は黙って立ち上がると、女に背を向けて、砂浜へと続く階段を降りていった。
(「一千年目の冬 〜the 1000th winter〜」より抜粋)